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当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧

1 :人間七七四年:2007/06/08(金) 17:33:55 ID:P1ntm8y4
なかったので立てた
鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。

857 :人間七七四年:2011/10/27(木) 21:27:46.24 ID:k+fR208E
>>849
日本では鉄砲からの防御の為、面頬がより普及したと言われる事が多いが、どうなんだろう。

戦国中期においては北条の軍役帳では馬上の者は面頬の装備が義務付けられていて、
武田の天正4年の軍役定書には、馬上は面頬と喉輪を身につけること、
そして長柄、鉄砲、弓といった歩衆は兜に喉輪は身に着けるが、面頬の装備は書いていない。

858 :人間七七四年:2011/10/27(木) 23:10:48.33 ID:QTTAtWIp
長柄や鉄砲、弓みたいな足軽にまで頬当を装着させる経済的余裕がなかったんだと思う
御貸具足自体がお粗末なものだし


859 :人間七七四年:2011/10/31(月) 21:00:56.01 ID:NGbIEoue
足軽の長槍は、先が撓うために目標を正確につくことができない。槍襖を作って相手の進撃を止めたり、上からたたいたりして用いる。
これに対して上級の武士が持つ手鑓は、せいぜい3メートルくらいで長さが短く、重量も軽いからコントロールしやすく、訓練を積めば目標を正確に突くことができる。
それでも甲冑を貫くことは難しいから、相手の甲冑の隙間を狙うことになる。この隙間をなくすことが面頬や喉輪の役割だったのではないだろうか。
とすれば、もともと重武装でもない隙間だらけの格好で、手鑓を持った敵と対峙することを想定していない足軽が、それらをつけないのは当然。

860 :人間七七四年:2011/10/31(月) 22:35:49.54 ID:CERMI1Ly
足軽に面頬はないよな・・・
兜に面頬の足軽はいまだかつて聞いたことがない。
陣笠に面頬のシュールな足軽って歴史上存在したのかなw

861 :人間七七四年:2011/10/31(月) 23:17:00.79 ID:JyUrtS7q
>陣笠に面頬のシュールな足軽
なんかそれイスンシンの朝鮮ドラマで見たぞ
目の下頬完備の足軽軍団が火縄銃を連発銃のように連射してたw

862 :人間七七四年:2011/11/01(火) 00:06:36.37 ID:ZkK8kOvj
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1334961983
映画「天と地と」では海外ロケで現地人エキストラを雇ったため、
顔が露出すると都合が悪いので足軽にいたるまで面頬を着けさせたんだって。
映画作品としては面白いが史実では絶対にありえなかった光景だな。

863 :人間七七四年:2011/11/01(火) 00:19:33.18 ID:WyVnpUtf
貸具足ではせいぜい頬当がいいところ
>>862
カナディアンマンってバレちゃうしwww

864 :862:2011/11/01(火) 00:24:14.78 ID:ZkK8kOvj
追伸。当世具足が出現し、統一した軍装をそろえるという発想が一般化する前の
室町末〜桃山初あたりの戦場では、適当に入手したり配布されたりした頬当や喉輪を着けて、
頭や首を防護していた下級兵士はそれなりにいただろう。
宣教師の記録によれば、日本人は喉輪やシコロ程度を付けていても武装したとみなされていたようだし。

また、遺品はほとんどないが、鉢巻に横長の鉄板を縫い付けた額鉄(ひたいがね、後世の鉢鉄の前身か)
という簡易防具も使われていた。
ただ、頬当や額鉄は、兜を持てない足軽にとっては顔面よりもあくまで頭部を守るためのものであったと思われる。

江戸期に入って軍規の整備が進み、武士の階層が固定化して以降、平の足軽が面頬を装備することはなくなった。

865 :人間七七四年:2011/11/01(火) 05:12:17.84 ID:PlXHPQeO
そういえば黒沢映画「七人の侍」で三船敏郎演じる菊千代は、周囲に鎖を垂らした兜の鉢をかぶっていた場面もあったが、最後の決戦のでは頭部には「はつぶり」(字失念)をつけただけだった。額の部分を守るのには有効だったと思われる。
最後の場面で兜を用いなかったのは、天辺の穴から髷を出せないためしっかり固定できず、撮影の激しい動きに対応できなかったからだろう。
ところで、この時小道具として用いた兜の鉢は、某有名画家が所有していた平安期の本物で、文化財指定された物、と読んだだ記憶があるのだが、現在調べても該当するものがない。映像を見る限りそれらしい物で、平安期のものと言うのは真実らしく思える。

866 :人間七七四年:2011/11/01(火) 15:35:59.23 ID:JnbdnHSC
http://2.bp.blogspot.com/_IRgk1OdXjNY/THBZ90HcWpI/AAAAAAAABx0/w3SqXkspjks/s1600/13.jpg

↑現在ロンドン塔に所蔵されている
徳川秀忠がジェームズ1世に送った胴丸が好きだな。色合いが綺麗
これって実際に秀忠が着用したことはあるんだろうか
それとも贈答用に新しく作られたもの?

867 :人間七七四年:2011/11/01(火) 16:36:35.11 ID:KGcMnF1n
>>866 徳川美術館(名古屋)蔵の、花色日の丸縅胴丸具足に細部の特徴が良く似ている。これは、かつては秀吉のものと言われたが、現在では家康のものと判明している。
家康の鎧は奈良の岩井が作っていたから、この秀忠のものも岩井の作だろう。日の丸縅と同時期に一連の作として作られたのではないか。
家康のものは大坂夏の陣に用いたとの説があり、これが正しいとすれば秀忠の方も夏の陣に用いた可能性がある。
しかし、実戦に使用すれば汚れるはずで、そのようなものを贈答品に用いたかは疑問もある。

868 :人間七七四年:2011/11/01(火) 16:41:20.60 ID:R8ebT6iE
大阪夏の陣では、少なくとも家康は一度も武装していなかったはず

869 :人間七七四年:2011/11/01(火) 17:05:42.88 ID:TwUrGR+G
>>865
七人の侍の重文クラスの鎧って敵の大将が着てるやつかと思った

870 :人間七七四年:2011/11/01(火) 18:17:30.81 ID:zYJjO1p1
>>868 甲冑を身につけることはしなくても、武家のたしなみとして、陣中、甲冑はつねに身辺においていたと思われる。

871 :人間七七四年:2011/11/01(火) 20:36:05.54 ID:JnbdnHSC
>>867
言われてみれば確かに似てるな、
と思って調べてみたら海外サイトで詳しい情報を見つけた↓
http://www.heritage-images.com/Preview/PreviewPage.aspx?id=1197058&pricing=true&licenseType=RM
秀忠が贈った胴丸は1610年、Iwai Yozaemonの作だそうだ


872 :人間七七四年:2011/11/02(水) 06:00:39.76 ID:5IMCi9fo
水戸東照宮にある総毛引紅糸縅胴丸具足も、似たような作り。こちらも岩井与左衛門の作。与左衛門は今日流にいえば、多くの職人組織する甲冑プロデューサーで、自身は職人ではなかったようだ。
家康は壮年期には南蛮甲冑など、新しいもの用いたが、晩年は伝統的な毛引縅、大袖付きの胴丸具足に回帰したことがわかる。

873 :人間七七四年:2011/11/02(水) 17:26:01.45 ID:iqOMclv6
端的に言えば「武家の棟梁」にそういうものが求められた、ということだろうな

874 :人間七七四年:2011/11/04(金) 11:29:34.53 ID:BD+2F0HJ
>>865
「はつぶり」の漢字表記は「半首」もしくは「半頭」。
「七人の侍」で菊千代が被っていた鎖シコロ付きの星兜は、
平安期の本歌を基にして甲冑師の明珍宗恭(今年の1月に死去)が製作したもの。
江戸期のものならまだしも、動きの激しい映画の撮影に本物の中世甲冑を使えるわけがない。
ただし、そのモデルについては特定しがたい。がんばって調べてくれ。

>>866-868
>>870-873
岩井与左衛門が製作を監修し(兜のシコロの裏に朱書き銘が入っている)、
徳川将軍から海外君主に贈呈されたとされる具足は、
現在イギリスに2領、フランスに4領、オーストリアに1領が伝わっているが、
いずれも日本国内にある日の丸紋柄威胴具足(徳川美術館)、紅糸威胴具足(水戸東照宮)と
ほぼ同様の作りこみである。共通点としては、
・鍬形台を打った阿古陀形筋兜に目の下頬
・大袖付きの毛引威本小札丸胴
・筒籠手に筒臑当、佩楯はばらつきがあるが板佩楯が多い
・金銀蒔絵を金具廻や小具足に施す
といったようなことが挙げられる。
興味深いのは、徳川家一門の所用するものには葵紋を入れた金物が打たれているのに対し、
贈呈された具足については葵紋が使われていないどころか別の紋が入っているのである。
これは既製品を再生して一領に仕立てていたと考えられるが、
いかなる意図があってこのような方針をとったのかは不詳である。
宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』にもっと詳しい調査報告が載っているので、
興味がある人はそちらを読んでほしい。

875 :人間七七四年:2011/11/04(金) 20:44:22.64 ID:50eGmW8B
徳川美術館の日の丸紋柄縅胴丸には、葵の紋は入っていない。それが長らく秀吉のものと誤解されていた理由。
そのかわり籠手や脛当てに菊、桐、巴、をはじめとして何種類もの紋が散らされている。
徳川美術館の熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず。
葵の紋が入っているのは上田博物館にある松平信一のものくらいのもの。
これはもともと家康のものであったが、紋柄縅で葵の紋を出している他、金物にも葵の紋が散らしてある。
その他、家紋が入っているのは尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴くらいではないか。これは珍しく前田又左衛門と名前まで入っている。
赤穂大石神社森長可の伊予札胴乃金物に入るはの桐紋で、鶴丸ではない。
家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか。

876 :人間七七四年:2011/11/05(土) 00:37:34.19 ID:C2XLGN4K
>>875
徳川家用の甲冑には必ず葵紋が入っているとまで言い切るつもりはないが、
あれだけ海外に贈られた具足には一つも入っていないというのも不思議な感じがする。
>>熊毛植え黒糸縅具足や羊歯具足には家紋はなかったはず
熊毛植の方は調べていないのでわからないが、羊歯具足の方には、シコロの鉢付鋲などに葵紋が入れられている。
また、
>>尾山神社蔵の前田利家の鉄鋼胴
は、胴の形状や弾痕からして、江戸初期に流行した試し胴であり、古く見ても利常の代が上限に見える。
「前田又左衛門」の銘切りは後世による伝来の付加の一環で行われたのではないか。
>>森長可の伊予札胴の金物に入るのは桐紋
桐紋が当時権威性の高いものだったという前提で考えると、長可の伊予札胴は目上の者から下されたものという可能性が高い。
そうであれば、自分の紋に変えたりすることなくそのまま使用するのが普通だろう。
この場合、長可にこの胴をあげたのは信長か秀吉ということになるが、作域に新しい特徴が見られるので、
実際は忠政所用だったかもしれない。
>>家紋を甲冑に入れる習慣があまりなかったのではないか
家紋ではなく紋様として好まれたデザインは多々あり、多くの現存甲冑にも取り入れられているが、
どう見ても一般的ではなく、家紋としか考えられない紋を付けた最古の例は、
鎌倉時代の遺品にもある(鶴嶺神社の赤糸威大鎧は十字紋の裾金物を打つ)。
それ以来連綿と続き、多少特別な意味合いを帯びることはあってもとりわけ特異な行為ではなかったと思える。
もちろん、オーダーでないレディメイドの量産品(近世の一部の御貸具足を除く)には、
最初は特定の家紋が付くことはなかったろう。

877 :人間七七四年:2011/11/08(火) 10:00:57.14 ID:apqPjTEG
http://blogs.yahoo.co.jp/kbqbh446/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg2.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2F11%2F30%2Fkbqbh446%2Ffolder%2F1043289%2Fimg_1043289_29235983_0%3F1313136434

笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった
大高城兵糧入れの時点で仏二枚胴具足があったらオーパーツになるんじゃないか?
革包の仏胴なら当時からすでにあったのかもしれないけど

878 :人間七七四年:2011/11/08(火) 10:05:11.38 ID:apqPjTEG
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/11/30/kbqbh446/folder/1043289/img_1043289_29235983_0?1313136434
おっと、>>877のリンク見れないな。こっちを見てね

879 :人間七七四年:2011/11/08(火) 13:18:00.34 ID:xcmwFD7E
>>877 この金陀美具足には、ほとんど同じ仕様で白檀塗りの具足がもう1領あるのも不思議。大身ならば替え具足を持っても不思議ではないが、この当時の家康(松平元康)はそれほどでもないし。
1550年代終わりの製作と考えるのは、確かにしっくりこないが、それとてこれといった根拠があってのことではない。
現在の久能山東照宮に来る前は、江戸城紅葉山文庫に羊歯具足などともに保管されていたこと、葵の紋をつけた豪華な蒔絵の具足櫃に入れられていること、あえて修理の手をいれていないこと、などから判断して、徳川家にとって特別な意味をもった具足であったことは事実。


880 :人間七七四年:2011/11/08(火) 23:13:18.81 ID:zrUF6GdE
>>877
金陀美具足は、人によっては製作された年代を江戸前期(家康死後)に推定することもあるが、
個人的には上限を桃山期(関が原合戦の前後)に引き上げてもいいんじゃないかと思う。

桶狭間の合戦時に、形式が何であれ金をふんだんに使った甲冑を用意できるほどの
経済的余裕や地位が松平家にあったとは考えにくいし、『信長公記』中の元康の格好を、
金色の具足が朝日に照らされて赤く見えたのだろうと解釈するのには苦しさを覚える。
そうではなく最初から朱色を添えた鎧を使用していたのではないか。

静岡浅間神社には今川義元が調製させた家康着初めの鎧と伝わる小ぶりの腹巻が伝わるが、
これを用いていたのも否定できないだろう。一般的な腹巻に比べると、
少年用とあってサイズはやや小さめだが、幅の狭い本小札(奈良小札)を紅糸で毛引きに威し、
草摺を9間に割り、背中の引き合わせには背板を設けるといった入念な室町末期の作域で、
奈良の甲冑師による作品と見られる(かつては同作の袖・兜も付いていただろうが、いまは胴のみ)。
よって、この腹巻は、本来は今川氏真の元服鎧として作られたものを、
お下がりとして元康が頂いたとする説もある。
お古とはいえ今川家嫡男の品を義元が元康に与えたことは、
彼が松平家をどのように見ていたのかを考える上でもヒントになろう。
元康も元康で、義元が戦死するまでは今川家を離れようと思わなかったはずで、
戦陣に際しては厚遇の証として主から下された鎧を着て手柄を立てることを
考えていたとするのが人情としては自然だろう。
気がかりなのは元服から桶狭間まで成長期にあっただろう元康の体形だが、
そこは当時の栄養事情から、背丈はあまり変化しなかったとすれば間に合ったかもしれない。

ttp://www.youtube.com/watch?v=SR2U6nmP2as
↑紅糸威小腹巻(0:55前後から写真が登場。字幕では増善寺所蔵とあるが誤り)

うがった見方をすれば、青年期の元康の行動を隠蔽するために、
金陀美具足(家康存命中に作られたか、死後に幕府が製作させたかは不明だが)に、
改めて大高城兵糧入れの伝来を付加し、この腹巻を世間の耳目から遠ざけようとしたと考えられる。
世情の安定化と幕府による統治の正当化の一環として家康神君化が進められたわけだが、
反乱や下克上を否定する幕府にとっては、家康も若い頃に主家である今川に対して離反・敵対し、
駆逐している事実が非常に不都合な材料だったのである。
であるから、戦国の臭いを放ち、今川家の影をまとう腹巻を封じ、
見栄えのよい金陀美具足を掲げたと思うのだが・・・。

881 :人間七七四年:2011/11/09(水) 00:03:56.50 ID:mf3WtZO+
うむ、納得できる解釈だな
俺も金陀美具足は作風からして桃山時代が一番しっくりくるのではないかと思う
そういや、家康少年時代の召領として後世に創作された金小札の童具足なんてのもあるよね

882 :人間七七四年:2011/11/10(木) 00:27:08.66 ID:kbSqamA4
伊達政宗の黒漆五枚胴具足って、実物を見ると小鰭がかなり大きいんだな。
肩先に付いてる程度と思ったら、肩全体を覆うくらいだった。
大袖が省略された代わりに大きくしてるんだろう。
前立以外はほんとにシンプルで実用的だなー。元和偃武以降の甲冑と好対照だ。

883 :人間七七四年:2011/11/10(木) 01:14:24.16 ID:lgxyTSMN
>>882
大仰な立物は戦闘時の邪魔になるように見えるが、
あの時期の武将の軍装は目だって何ぼの感覚が当たり前だったので、
あの弦月の前立だけだとむしろ控えめな印象を覚える。
陣羽織や指物などと合わせて効果的に演出していたのだろう。

実戦期の兜の立物は消耗品のコンセプトで製作されており、
素材には軽い木材や薄い金属が主に使用されているため、
武器や物が引っかかった時に壊れたり抜けたりしやすい作りになっている。

また、元和偃武をもって世の中の気分が穏やかになったわけではない。
実際は幕府の武断政治によって大名の改易が多発して大量の浪人が発生、
殺気立った雰囲気は家綱・綱吉の頃までなかなか落ち着かなかった。
大阪の陣より間は空くが島原の乱が起こっているし。
甲冑もこの時期までは緊迫した時勢を反映して実用を強く意識していた。
装飾が増えるようになるのは太平気分が広がった17世紀後期から。

884 :人間七七四年:2011/11/10(木) 01:59:59.47 ID:kbSqamA4
>>883
黒田長政や加藤嘉明のイカ兜と比べればねw
弦月の前立はスペアもあって木製と革製だそう。

885 :人間七七四年:2011/11/10(木) 10:20:19.52 ID:NGGLqTQ7
http://www.ermjp.com/kk/bun_nani/03-kjyubun/pickup/06-003/index.htm

因島水軍城所蔵の白紫緋糸段威腹巻って、もともとは小早川隆景の着領だったんだな
「一個人」12月号にそう書いてあってびっくりした(監修・文は笹間良彦氏の弟子、棟方武城)
村上吉亮の元服時に贈ったものと聞いていたからてっきり贈答用に新しく作らせた腹巻かと思ってた

886 :人間七七四年:2011/11/10(木) 13:12:16.20 ID:9J4vksb/
腹巻は背中の部分が割れているから、体に密着させて着ても、その部分で動きを吸収できる。
体に密着していれば、重量が肩だけにかからず分散されるから、使い心地が胴丸などよりも良かったのではないだろうか。
背中部分に合わせ目があることは防御の面では不安があるが、それが腹巻の愛用された理由だと思う。


887 :人間七七四年:2011/11/11(金) 20:46:32.90 ID:UkVilvAC
質問なんですが鎌倉時代や南北朝時代の小札や鉢が
そのまま当世具足などの後世の鎧に使われた例とかあるのでしょうか?

888 :人間七七四年:2011/11/11(金) 22:01:02.50 ID:9CqoG5+O
>>887
古物を形を変えずに使うことはあったかもしれないが
(寺社に奉納されていた古い甲冑を後世の人間が引っ張り出して戦に赴いた話も伝え聞くから)、
現存品では時勢に合うように改造を施されたものが結果的には目立っている。
一例として、福島県の都々古別神社には、当世眉庇や脇立用の角元を付け直された鎌倉期の星兜鉢が残っている。
また、実用を離れた江戸中期の復古調甲冑にも、古い鉢や札を流用して大鎧や胴丸を仕立てた作品が散見される。
当たり前だが年代の上がるほど、甲冑は部品が離れたり破損したりしやすいので、
特に中世甲冑が完品で伝わるケースは稀である。
江戸期の当世具足の中に室町末期の兜鉢が使われていたりするとそれだけでも大変価値のあるものといえる。

889 :人間七七四年:2011/11/14(月) 20:03:09.62 ID:B3i4s+oe
この週末に京都の丸武主催大甲冑展行ってみたが
やっぱりレプリカはレプリカだなあ
三斎着用甲冑は京都国立博物館で見た本物が草摺下二段に緋色ビロウドなのに
レプリカは草摺下一段だけ、後何故か袖にも貼ってある意味不明仕様
乗馬時に鞍との当たりを柔らかくするためって説明が本物にはあったが
レプリカには説明も当然なくただの色分けにしかなってねえ
出来が悪いとまで言うつもりはないが、本物の後に見ると感動がないな

890 :人間七七四年:2011/11/14(月) 20:59:00.91 ID:chseaMsY
>>889
拙者は大甲冑展の武者行列のほうに参加してたでござる
行列といっても、みやこめっせから平安神宮までの数百メートルの間だけど。

平安神宮には七五三の子供たちがいっぱいで、我々と一緒に写真撮影していった。

891 :人間七七四年:2011/11/15(火) 15:23:32.23 ID:4s2yEod3
>>877
>笹間良彦氏がこの金陀美具足について「家康公初陣の具足」という伝来を支持しているのには驚いてしまった

例えば直江兼続の「愛」の甲冑にも(胴についての)異議は述べてないわけだが・・・
だからといって気づかなかったわけじゃあない。
所蔵者の神社や旧大名家ではそういう建前なんだから、あえて言わないだけってのも多いよ。

それを言っちゃうと出入り禁止ってとこも実際にある。
所有先が公的な博物館に移ったりすると、そこらへんも問題なく発言できるようになるけどね。

892 :人間七七四年:2011/11/15(火) 23:39:40.46 ID:dQ7iwkUr
>>891
いや、それがどの本だったか、異議を唱えていないだけならまだしも
「人質時代にこんな高価な具足を新調した家臣の苦労が偲ばれる」みたいに書いてたので
本心から伝来を信じているように思えた
そりゃまあ、あの時代には絶対に仏二枚胴などなかったと断定するつもりはないけど

893 :人間七七四年:2011/11/18(金) 07:45:36.64 ID:qMcLxmtL
>>890
よう同胞、お疲れ様でした。
まさか兜被ったまま本殿に入れるとは思わなかった。

894 :人間七七四年:2011/11/18(金) 13:20:18.23 ID:8EvC3yus
兜かぶったまま本殿に入るのはいけないことなの?

895 :人間七七四年:2011/11/20(日) 22:38:16.48 ID:o2Canb1U
宣伝というわけじゃないが、
12月11日まで靖国神社遊就館で館蔵の刀剣や甲冑が特別展で公開されてるよ。
非常に面白いし、展示品の質もよいので東京近郊に住んでる人は見に行くといい。
それとも、ここに書き込んでる人はもう知ってるか。

896 :人間七七四年:2011/11/25(金) 13:29:22.52 ID:1WUSyaqZ
巡回しないかな

897 :人間七七四年:2011/11/25(金) 20:26:33.36 ID:9qoOW++I
江戸時代以前、甲冑は関東でしか製造されていなかったと読んだんですが本当ですか?

898 :人間七七四年:2011/11/25(金) 20:59:06.65 ID:qiEUe5HK
>>897
それ何て本に書いてあったの?事実誤認もはなはだしいね。
確かに室町末期ごろから地方での生産が目立ち始め、
とりわけ関東地方では五枚胴が登場するなどの特色が現れるけど、
それでも近世に入るまで日本の甲冑生産第一位は奈良で、次に京都・大坂が来る。
徳川幕府が開かれると新たに江戸が加わるんだけどね。
学術専門書だけど、宮崎隆旨『奈良甲冑師の研究』に詳しい研究報告が載ってるよ。

899 :人間七七四年:2011/11/26(土) 04:13:17.11 ID:uGTmdInH
てか単純に考えて、江戸時代以前の日本の中心は西だろうに…
洛中洛外図なんかにも鎧師の絵があるよね

900 :聖徳太子:2011/11/29(火) 12:02:19.03 ID:opS95nw7
はじめましていきなりですがいろいろなよろい画像がほしいですできればここに貼り付けてくださいおねがいします皆さんほだれのよろいがいちばんすきですか



901 :人間七七四年:2011/11/29(火) 14:44:25.23 ID:x7Zg+wg7
>>900
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%A2%E3%83%93%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%84&oe=utf-8&rls=org.mozilla:ja:official&hl=ja&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=904&bih=711&sei=MXHUTtr-JZDDmQXP-ZiDAQ

902 :人間七七四年:2011/11/30(水) 23:58:28.33 ID:3Vy2W7CY
小ネタ投下。兜の忍緒の締め方。
ttp://www.youtube.com/watch?v=qXRlFprj9Go

忍緒を蝶結びで締めると安定性が悪いし、余った端の先がぶらぶらしてダサいし、
物に引っかかったり敵につかまれたりしてろくなことがないのできっちり締めましょう。
ちなみに解説してる人は現役甲冑師の三浦公法氏。日甲研の常務理事で、数多くの作品を修復・製作してきた方。
お兄さんの三浦権利氏も西洋甲冑師として有名である。

903 :人間七七四年:2011/12/01(木) 00:50:54.95 ID:qfD31S6s
>>898-899
本じゃなくてとある掲示板の書き込みです。どう考えてもおかしいと思ったんですがやっぱりデタラメだったみたいですね。ありがとうございました。

904 :人間七七四年:2011/12/01(木) 09:48:56.36 ID:BfiLUcmK
>>902
へー顎にかけるのは間違いなんだ

905 :人間七七四年:2011/12/03(土) 20:21:49.33 ID:eG0+9E7O
鎧の歴史
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1314345476/624-633n
[632:世界@名無史さん≪sage≫ (2011/12/03(土) 17:59:38.34 0) AA]
>>630
モンゴルと満州とトルコとチベットが抜けてる
1.中国
2.日本
3.モンゴル
4.トルコ
5.満州
6.チベット
7.朝鮮

906 :人間七七四年:2011/12/06(火) 14:52:35.66 ID:RJU0+cCS
>>905
そういう無知蒙昧なスレを貼られても困る

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